レコードのノイズと、土付き野菜の共通点──私たちが失った「生きている感じ」
コンビニのコーヒーは、なぜ記憶に残らないのだろう。
毎朝、同じボタンを押し、同じ音がして、同じ味が出てくる。札幌でも博多でも、変わらない。完璧だ。でも、完璧すぎて、何も残らない。昨日飲んだコーヒーと、今日飲んだコーヒーの区別がつかない。それは「飲んだ」という事実だけが記録される、記号のような体験だ。
一方で、駅前の小さな喫茶店で飲んだコーヒーは、なぜか10年経っても覚えている。味が特別美味しかったわけじゃない。でも、マスターが「今日は豆、ちょっと深煎りすぎちゃってね」と苦笑いしながら出してくれたこと。カップに微妙な欠けがあったこと。窓から見えた雨の景色。それら全部がセットで、記憶の中に残っている。
完璧なコンビニコーヒーには、ノイズがない。ノイズとは、不完全さのことだ。予測できない要素、計算外の出来事、マニュアルにない瞬間。私たちは効率を追求するあまり、このノイズを「バグ」として排除してきた。
でも、実はそのノイズこそが、「生きている感じ」の源泉だったのではないか。
完璧に磨かれたガラス玉は、手から滑り落ちる
デジタル音源とアナログレコードの話をしよう。
音質だけで言えば、デジタル音源の方が圧倒的に優れている。ノイズがない。歪みがない。CDやSpotifyで聴く音楽は、スタジオで録音された音を、ほぼ完璧に再現する。まるで真空パックされた音楽だ。
一方、レコードには「プチプチ」というノイズがある。針が盤面を擦る音。ホコリが入れば「パチン」と鳴る。何度も聴けば、盤面が擦り減って音質が劣化する。不完全だ。欠陥だらけだ。
なのに、なぜ今、レコードが見直されているのか?
それは、あのノイズが「そこに物理的な世界が存在する証拠」だからだ。針が溝を辿っている。盤が回転している。空気が振動している。スピーカーから音が出て、その振動が部屋の空気を伝わり、私の鼓膜を震わせている。この一連の物理的なプロセス全体が、音楽体験なのだ。
デジタル音源は違う。データがある。そのデータが、デジタル信号に変換され、スピーカーから音が出る。完璧だが、どこにも物質がない。触れられない。確かめられない。まるでガラス越しに音楽を聴いているような、微妙な隔たりを感じる。
これは音楽だけの話じゃない。
イオンの野菜には、誰も触った痕跡がない
スーパーの野菜売り場を見てみよう。
イオンやイトーヨーカドーに並んでいる野菜は、すべて完璧だ。同じサイズ、同じ形、傷一つない。土もついていない。ビニール袋に入って、バーコードが貼られている。商品として、完璧に整っている。
でも、農家の直売所で売られている野菜は違う。サイズはバラバラ。形も歪んでいる。土がついている。「ちょっと虫食いあるけど、味は変わらないよ」と手書きの札が立っている。
どちらが「いい野菜」なのか?
栄養価だけで言えば、工業的に生産された野菜の方が安定している。品種改良され、肥料の配分も計算され、害虫駆除も徹底されている。完璧だ。
でも、土付き野菜を手に取った時、私たちは何かを感じる。「誰かが、土を耕し、種を蒔き、水をやり、収穫した」という痕跡。その野菜には、人間の手が触れた時間が刻まれている。
イオンの野菜には、それがない。どこかの工場で、機械が選別し、機械が洗浄し、機械が袋詰めした。人間の痕跡が、意図的に消去されている。だから、完璧で、清潔で、安全だ。でも、「誰が作ったのか」が見えない。
これは、レコードのノイズと同じ構造だ。ノイズとは、「そこに誰かがいた証拠」なのだ。
チェーン店の店員は、なぜ目を見て話さないのか
平成から令和にかけて、日本中が「大手チェーン」に覆い尽くされた。
スターバックス、サイゼリヤ、松屋、吉野家、ユニクロ、無印良品。どの街に行っても、同じ店がある。内装も同じ、メニューも同じ、BGMも同じ。まるで「どこでもドア」だ。東京にいても、大阪にいても、景色が変わらない。
これは便利だ。知らない街に行っても、安心して入れる店がある。味も価格も、事前に分かっている。失敗がない。
でも、失敗がないということは、偶然もないということだ。
個人経営の小さな店には、偶然がある。店主が機嫌がいい日と悪い日がある。「今日はこれ、作りすぎちゃったから安くしとくね」と言われる日がある。常連になれば、「いつものでいい?」と聞かれる日が来る。
チェーン店には、それがない。店員はマニュアル通りに接客する。笑顔の角度まで指定されている。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と言うが、目を見ていない。彼らは私を見ていない。私という個人ではなく、「客」という記号を見ている。
そして、私も彼らを見ていない。「店員」という記号として認識している。名札の名前すら覚えない。
これは効率的だ。感情労働を削減できる。人間関係のストレスがない。でも、そこには関係性がない。取引があるだけだ。商品と貨幣の交換。それ以上でも、それ以下でもない。
温かみを求める人が、実は一番「冷たい消費者」になっている皮肉
ここで、逆説的な真実を言おう。
今、「地産地消」「アナログ回帰」「手作り」「温かみ」を求める人が増えている。それ自体は悪いことじゃない。でも、その多くは「温かみ風の商品」を消費しているだけだ。
高級スーパーの「土付き野菜」を見てみよう。あれは本当に「土がついたまま売られている」のだろうか? 違う。あれはわざわざ土を残しているのだ。
本当に畑から採ったばかりの野菜には、泥がびっしりついている。虫もついている。葉っぱもボロボロだ。でも、それをそのまま店頭に並べたら、誰も買わない。だから、ほどよく洗って、ほどよく土を残して、「自然な感じ」を演出する。
レコードブームも同じだ。最近のレコード復刻盤の多くは、デジタル録音された音源をアナログに変換している。つまり、デジタル音源をわざわざレコードにして、「アナログっぽさ」を演出しているのだ。
古民家カフェ、手書き風フォント、わざと不揃いに作られた陶器。これらはすべて、計算された不完全さだ。マーケティングによって設計された「温かみ」だ。
私たちは「温かみ」を求めているのではなく、「温かみっぽい記号」を消費している。それは本当のアナログではなく、「アナログ風デジタル」という新しいジャンルだ。
小ネタ: Spotifyには「ビニールノイズ」というジャンルがある
驚くことに、Spotifyには「Vinyl Noise」「Record Crackle」というジャンルが存在する。レコードのプチプチ音だけを収録したトラックだ。
これを再生しながら、デジタル音源を聴く人がいる。デジタル音源にノイズを足すことで、アナログっぽさを演出するのだ。
これは究極の皮肉だ。私たちはノイズを排除するためにデジタル化したのに、今度はそのノイズを買い戻している。しかもデジタルで。
本当に失われたのは「ノイズ」ではなく、「予測不可能性」だ
ここまで読んで、あなたはこう思うかもしれない。「じゃあ、全部アナログに戻せばいいのか?」
違う。そうじゃない。
昭和に戻りたいわけじゃない。レコードしかなかった時代、個人商店しかなかった時代は、不便だった。選択肢が少なかった。情報も少なかった。村社会の息苦しさもあった。
デジタル化、チェーン店化、規格化。これらは間違いなく、私たちの生活を豊かにした。選択肢が増えた。安全になった。どこでも同じサービスを受けられるようになった。
問題は、その便利さと引き換えに、私たちが何を失ったのかを自覚していないことだ。
失われたのは「ノイズ」ではない。正確には、「予測不可能性」だ。
レコードのノイズは、毎回違う。どこでプチッと鳴るか分からない。それが「今、この瞬間、音楽が生まれている」という感覚を生む。
個人商店の店主は、気分で対応が変わる。今日は機嫌がいいかもしれないし、悪いかもしれない。でも、その予測不可能性が、「そこに生きている人間がいる」という実感を生む。
デジタル音源は、毎回同じ。コンビニの店員は、毎回同じ対応。チェーン店のメニューは、どこでも同じ。すべてが予測可能になった。
予測可能な世界は、安心だ。でも、ワクワクしない。
映画のネタバレを全部知った状態で観るようなものだ。安全だが、感動がない。
「完璧に最適化された世界」で、人間は何を感じながら生きるのか
ここで、恐ろしい問いを立てよう。
もしこの先、AIとビッグデータがさらに進化して、すべてが「あなた好み」に最適化されたらどうなるか?
Spotifyのレコメンドが完璧になり、あなたが「好きになる曲」だけが流れる。Netflixが「あなたが絶対に楽しめる映画」だけを薦める。UberEatsが「今日のあなたの気分に最適な食事」を届ける。
もう、選ぶ必要もない。失敗もない。すべてが最適解。
これは、究極の便利さだ。でも、これは究極の退屈でもある。
なぜなら、すべてが予想通りだから。
人生の喜びの多くは、「予想外」から生まれる。たまたま入った店が最高だった。友達に薦められた映画が意外と面白かった。失敗したと思ったことが、後で宝物になった。
でも、完璧に最適化された世界には、そういう「偶然」がない。すべてが計算済み。すべてが予定通り。
これは、「生きている」のではなく、「再生されている」ような感覚だ。
効率とノイズのハイブリッド──新しい生き方のデザイン
じゃあ、どうすればいいのか。
答えは、「意図的な非効率」だ。
すべてをアナログに戻す必要はない。それは現実的じゃない。デジタルの便利さを捨てる必要もない。
大事なのは、80%は効率化し、20%だけ意図的にノイズを残すこと。
週6日はコンビニでいい。でも週1日だけ、「看板のない店」に入る冒険をする
平日はコンビニ弁当で構わない。時間がない。疲れている。それでいい。
でも、週に1回だけ、「Googleマップで検索しない店」に入ってみる。看板が手書きの店。口コミが3件しかない店。営業時間が「気まぐれ」と書いてある店。
失敗するかもしれない。不味いかもしれない。でも、それでいい。その失敗が、記憶に残る。
成功体験より、失敗体験の方が記憶に残るというデータがある。脳は「予想外」の出来事を強く記憶する。だから、完璧な食事より、「あの店、微妙だったな」という体験の方が、人生に彩りを与える。
普段はSpotifyでいい。でも月1回、ライブハウスで生音を聴く
音楽もそうだ。普段はSpotifyで効率的に聴けばいい。通勤中、作業中、移動中。便利だ。
でも、月に1回だけ、小さなライブハウスに行く。アーティストが目の前にいる。彼らの息づかいが聞こえる。ギターの弦が切れるハプニングがある。観客が笑う。拍手が起きる。
その空間には、「今、ここ」にしか存在しない音楽がある。録音できない音楽。再生できない音楽。二度と同じ体験はできない音楽。
それが、生きている感じだ。
自分だけの「余白」を見つける
大事なのは、他人の「アナログ風」を真似ることじゃない。
あなたにとっての「余白」は何か? それを見つけることだ。
料理が苦手なら、無理に自炊しなくていい。その代わり、別の形で「手触り感」を得ればいい。
例えば:
- 家計簿アプリじゃなく、手書きで記録する
- メールじゃなく、年に1回だけ手紙を書く
- タクシーじゃなく、たまに知らないバスに乗ってみる
- スマホのアラームじゃなく、目覚まし時計を使う
これらは非効率だ。でも、その非効率が、あなたの生活に「生きている感じ」を取り戻す。
あなたの生活に、「予測不可能性」を1つだけ追加してみよう
最後に、問いかけたい。
あなたの生活の中で、「完璧すぎて違和感がある瞬間」はないだろうか?
毎朝、同じ電車に乗り、同じコンビニで、同じ商品を買い、同じ音楽を聴き、同じSNSを見る。
それは効率的だ。無駄がない。でも、記憶に残らない。
1週間前の月曜日と、今日の月曜日の区別がつかない。すべてが「同じ日」として記録される。これは、人生が「再生」されているような感覚だ。
もしそうなら、1つでいい。たった1つでいい。あなたの生活に、「予測不可能性」を追加してみてほしい。
明日の帰り道、いつもと違う道を通ってみる。それだけでいい。
週末、Googleマップを開かずに、勘だけで歩いてみる。それだけでいい。
月に1回、アルゴリズムが薦めない映画を観てみる。ランダムに選ぶ。それだけでいい。
その小さな「非効率」が、あなたの人生に彩りを与える。
完璧なガラス玉より、傷だらけの石を握りしめたい
最後に、もう一度メタファーに戻ろう。
この社会は、手触りを失ったガラス玉のようなものだ。表面はツルツルで完璧に磨かれている。傷もデコボコもない。でも、だからこそ手から滑り落ちる。握りしめることができない。
私たちが求めているのは、完璧なガラス玉じゃない。
傷だらけの石だ。
表面に微細な傷がついた、不格好な石。完璧ではない。でも、だからこそ手に馴染む。その傷一つ一つが「誰かが触った痕跡」であり、「時間が流れた証拠」だ。
レコードのプチプチ音は、傷だ。土付き野菜の泥は、傷だ。個人商店の店主の気まぐれは、傷だ。
でも、その傷が、「そこに生きている誰かがいる」という証拠なのだ。
完璧に最適化された世界では、誰も生きていない。すべてが機械的に動いている。予定通り。計算通り。
私たちは、もっと不完全でいい。もっと予測不可能でいい。もっと、生きている感じがほしい。
だから、週に1回でいい。月に1回でいい。
あなたの生活に、小さな「傷」を入れてみてほしい。
その傷が、あなたの人生を「記憶に残るもの」に変える。
さあ、今週のあなたの「非効率」は何にする?
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